【労働】東京地裁令和4年5月13日判決(労働判例1278号20頁)

元労使間でなされた元労働者が元使用者に対して退職日から期間1年間の競業避止義務を負う旨の合意について、目的が明らかではないこと、禁じられる転職等の範囲が広範であり、その代償措置も講じられていないことから、公序良俗に反し無効である旨判示した事例(確定)


【事案の概要】

(1)原告は、主にシステムエンジニアを企業に派遣・紹介する株式会社である。なお、原告は、A株式会社(以下「A社」という。)を委託者とする商流の第3次下請けである。
   被告は、中華人民共和国国籍を有する者であるが、平成25年に来日し、E大学大学院心理学研究科において心理学を学び、その後、日本語と中国語の翻訳の仕事に従事した経歴を有する者である。

(2)原告と被告とは、令和元年5月10日、次のとおりの労働契約を締結した。
 ア 期間 定めなし
 イ 就業の場所 原告社内及び原告が指定した場所
 ウ 職務内容 システムの設計、開発、テスト等 エ 賃金 月額30万円
 オ 交通費 別途実費支給(1万5150円)
 カ 支払方法 毎月末日締め翌月15日払い

(3)原告と被告は、上記雇用契約を締結した後、賃金を月額35万円に増額し、被告は、令和元年11月から令和2年9月30日まで、A社を就業の場所としてシステムエンジニアとして従事した。
      なお、Aは、ユーザーからプロジェクトを受託し、これを株式会社C社(以下「C」という。)に委託し、C社がD株式会社(以下「D」という。)へ、さらに原告へそれぞれ委託し、その従業員として被告が具体的業務を行なっていたものである。

(4)被告は、令和2年8月頃、同年9月末日をもって、原告を退社する旨を伝えた。被告は、原告を退社した後、令和2年10月1日以降、株式会社B(以下「B」という。)と業務委託契約を締結し、A社に通い、A社、その子会社もしくは関連会社であり、原告と取引関係のある事業者にて勤務した。
   なお、Aは、ユーザーからプロジェクト(ただし、原告が第3次下請けとして受託していたものとは異なるものである。)を受託し、これをCという。)に委託し、C社がBに委託していたものである。

(5)原告は、原告を退社した後である令和2年10月9日、原告作成の同日付け退職証明書を受領するとともに、次のとおり記載された同日付け「秘密保持契約書」と題する書面(以下「本件合意書」という。)に署名押印した。
 ア 第4条(競業避止義務の確認)
   私は、前各条項を遵守するため、退職後1年間にわたり次の行為を行わないことを約束いたします。
  (1)貴社との取引に関係ある事業者に就職すること
  (2)貴社のお客先に関係ある事業者に就職すること
  (3)貴社と取引及び競合関係にある事業者に就職すること
  (4)貴社と取引及び競合関係にある事業を自ら開業又は設立すること
 イ 第5条(損害賠償)
   前条各項に違反して、法的な責任を負うものであることを十分理解し、これにより会社が被った一切の損害(損害賠償請求に関連して出費した調査費用、弁護士費用及び訴訟費用等)、ならびに第三者が被った損害に対する賠償金等について、賠償することを誓約いたします。
 ウ 第6条
   退職後1年間にわたり、貴社と取引、及び競合関係にある事業者、貴社のお客先に関係ある事業者に就職する場合に、3か月分給与(最後の3ヵ月の平均額を月額の基準とする)の賠償金を賠償することを誓約します。

(6)被告は、原告に対し、令和2年10月20日付け「賃金支払請求書」を送付して、同年9月分の賃金35万円及び同月分の交通費1万5150円を支払うよう催告した。その後、被告は、東京簡易裁判所に対し、令和2年12月8日、小顔訴訟の訴えを提起した(以下「乙事件」という。)。
        原告は、東京簡易裁判所に対し、同月18日、訴えを提起し、被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づき、約定損害額139万8331円及びこれに対する遅延損害金の支払を求めた(以下「甲事件」という。)。同裁判所は、同年2月18日、両事件を併合し、同月25日、本件を東京地方裁判所に移送する旨を決定した。


【争点】

(1)被告が原告に対して原告を退職した後に競業避止義務を負うことを約束したかどうか(争点1)
(2)原告と被告の競業避止義務に関する合意が公序良俗に反して無効といえるかどうか(争点2)
(3)被告は、原告に約した競業避止義務に違反したかどうか(争点3)
(4)被告は、自由競争として許容される範囲を逸脱した違法な競業を行なったかどうか(争点4)
(5)原告に生じた損害の有無及び程度(以上、「甲事件」に関するもの)
(6)原告の被告に対する令和2年9月分の賃金等の有無(「乙事件」に関するもの)
   以下、上記(2)及び(4)についての裁判所の判断の概要を示す。
   なお、裁判所は、上記(1)について、本件合意書の成立を否定すべき事情はなく、被告が原告に対して本件合意書に基づき原告を退職した後に競業避止義務を負うことを約したものと認定した。 


   上記(2)についての被告の主張の概要は、以下のとおりである。
 ア 本件合意書4条の文言に照らすと、被告は、システム開発関係やエンジニア派遣に関する会社はすべて就職することができなくなり、過度に広範である。特に、システムエンジニアは、個人で業務を受注することはなく、人材派遣会社等に登録して、開発依頼が来た時に業務に従事することが多く、このような労働形態さえも、禁止されてしまう。
 イ また、本件合意書は、競業・転職を禁止する期間1年間とするが、発展の目覚ましいシステム開発分野において、1年間にわたる競業・転職の禁止は、自己の技術劣化を来し、相当に長期といえる。
 ウ そして、本件合意書は、競業・転職の禁止を定め、損害賠償義務を負わせるものの、相応の対価代償措置を設けておらず、被告は、労働契約を締結していた期間中も、それに見合う対価を与えられていなかったのであって、労働者に一方的な負担を負わせるものとなっている。
 エ したがって、本件合意書に係る合意は、労働者の職業選択の自由過度に制限するものとして公序良俗に違反し、無効である。


【裁判所の判断】

(1)争点2(原告と被告の競業避止義務に関する合意が公序良俗に反して無効といえるかどうか)について
 ア 判断枠組み
   従業員の退職後の競業避止義務を定める特約は、従業員の再就職を妨げてその生計の手段を制限し、その生活を困難にする恐れがあるとともに、職業選択の自由制約を課すものであることに鑑みると、これによって守られるべき使用者の利益、これによって生じる従業員の不利益の内容及び程度並びに代償措置の有無及びその内容等を総合考慮し、その制限必要かつ合理的な範囲を超える場合には、公序良俗に反して無効であると解するのが相当である。
 イ 検討
  a) 本件合意書が退職後の競業避止義務を定める目的・利益について
   本件合意書は、第1条から第3条まで、秘密保持に関する定めを置き、原告在職中に知り得た経営上、営業上又は技術上の情報について漏洩・使用等を行わない旨を定めているものと認めることができ、4条から第6条までは、「前各条項を遵守するため」、「前各条項に違反して」との文言を用いていたことからすれば、当該秘密保持に係る条項を遵守するために、競業避止義務を定めたものと合理的に解することができる。
   しかしながら、原告は、主にシステムエンジニアを企業に派遣、紹介する株式会社であって、その具体的な作業については各派遣先・常駐先・紹介先会社の指示に従うものとされていたと認めることができる。このような原告におけるシステムエンジニアの従事する業務内容に照らせば、原告がシステム開発、システム運営その他に関する独自のノウハウを有するものとはいえないし、被告がそのようなノウハウの提供を受けたと認めるに足りる証拠もないのであって、原告において本件合意書が退職後の競業避止義務を定める目的・利益は明らかとはいえない。
  b)本件合意書は、「(1)貴社との取引に関係ある事業者に就職すること」、「(2)貴社のお客先に関係ある事業者に就職すること」、「(3)貴社と取引及び競合関係にある事業者に就職すること」及び「(4)貴社と取引及び競合関係にある事業を自ら開業又は設立すること」を禁ずるものと認めることができるところ、いずれも文言上、転職先の業種・職種の限定はないし、地域・範囲の定めもなく、取引に関係ある」、「競合関係にある」又は「お客先に関係ある」事業者とされ、現行の取引先のみならず、原告の客先の取引先と関係がある事業者までも含まれており、禁止する転職先等の範囲も極めて広範にわたるものといわざるを得ない。そして、被告は、令和元年11月から令和2年9月30日まで、システムエンジニアとして従事していたものと認めることができるのであり、このような被告の職務経歴に照らすと、上記の範囲をもって転職等を禁止することは、被告の再就職を著しく妨げるものというべきである。
  c)被告は、原告に勤務していた期間中、基本給及び交通費の支給を受けていたものと認めることができるにとどまり、手当、退職金その他退職後の競業禁止に対する代償措置は講じられていない。また、本件合意書においても、被告の負うべき損害賠償義務(第6条)を定めるにすぎず、その代償措置については何らの規定もないのである。
  d)以上のように、原告の本件合意書により達しようとする目的は明らかではないことに比して、被告が禁じられる転職等の範囲は広範であり、その代償措置も講じられていないことからすると、競業禁止義務の期間が1年間にとどまることを考慮しても、本件合意書に基づく合意は、その制限が必要かつ合理的な範囲を超える場合に当たるものとして公序良俗に反し、無効であるといわざるを得ない。
 ウ 小括
   したがって、争点2(原告と被告の競業避止義務に関する合意が公序良俗に反して無効といえるかどうか)に関する被告の主張は、理由がある。

(2)争点4(被告は、自由競争として許容される範囲を逸脱した違法な競業を行なったかどうか)について
   上記において説示したとおり、被告は、本件合意書の内容を閲読し、理解した上で、署名押印したものと認めることができるが、その合意は、公序良俗に反し、無効であるといわざるを得ない。
   そして、被告は、令和2年9月20日、B社と業務委託契約を締結したものと認めることができるが、同契約によると、その契約期間の始期は同年10月1日と定められており、被告在職中の原告の業務を何ら害するものではないということができる。また、原告がA社からC社、D社に次ぐ第3次下請けであるのに対し、B社がA社からC社に次ぐ第2次下請けであって、原告の受注する業務等と競合するものでもないと認めることができる。したがって、当該業務委託契約を締結したこと自由競争の範囲を逸脱したものとはいい難い。
   そして、原告を退職した後に認められる職業選択の自由を踏まえ、被告において収入を得て生活を維持する必要があることからすると、本件合意書を作成する前であり、退職後、間断なく他企業に就業したこと自由競争の範囲を逸脱する違法な競業行為に当たると解する余地はない。
   したがって、争点4(被告は、自由競争として許容される範囲を逸脱した違法な競業を行なったかどうか)に関する原告の主張は、採用することができない。

(3)結論
   甲事件に関する原告の請求は理由がなく(請求棄却)、乙事件に関する被告の請求は理由がある(請求認容)。


【コメント】

   本裁判例は、元労使間でなされた元労働者が元使用者に対して退職日から期間1年間の競業避止義務を負う旨の合意について、目的が明らかではないこと、禁じられる転職等の範囲が広範であり、その代償措置も講じられていないことから、公序良俗に反し無効である旨判示した事例です。
   退職労働者が負う秘密保持義務の実効性を確保する目的でなされた、競業避止義務に関する合意は、必要かつ合理なものとして、有効と認められる余地があります。しかし、本件の原告のようないわゆる多重請負の中間業者について、「システム開発、システム運営その他に関する独自のノウハウを有するものとはいえない」と認定された場合には、保護の対象となるべき秘密自体が存在しないため、その合意が無効となるものと思われます。

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