事業主が従業員を相手に提起した債務不存在確認訴訟について、当該従業員がパワハラ等を理由として損害賠償請求権を行使する現実的危険がなく、即時確定の利益を欠くとして、訴えを却下した事例(上告審にて確定)
【事案の概要】
(1)控訴人(一審原告)は、建築リフォーム等を業とする株式会社である。
被控訴人(一審被告)は、控訴人の従業員であったが、令和4年2月27日付けで自動退職扱いとされた。
Aは、被控訴人が控訴人に勤務していた当時の上司であり、平成29年10月10日から令和2年9月30日まで控訴人の取締役であったものである。
(2)被控訴人は、平成27年4月から控訴人の従業員として稼働し、同じく控訴人の従業員である女性と平成29年12月に婚約し、平成30年9月に結婚式を挙げたところ、その間の同年3月に同女性の妊娠が判明した。
(3)被控訴人は、控訴人に対し、令和元年5月19日付けの「○○を日本一の会社に飛躍させるための案」と題する書面(以下「本件申入書」という。)を提出した。
本件申入書には被控訴人入社後の時系列に沿いつつ被控訴人が感じたことなどが書かれた部分もあったが、その中に、上記女性が妊娠したことにつき平成30年4月に幹部から詰められたといった記載や、Aからのパワーハラスメントにより鬱になった旨の記載などが含まれていた。
(4)被控訴人は、令和元年5月23日から育児休業を取得していたが、令和2年10月14日、控訴人代表者と面談し、本件申入書に記載された件で話をした。話は育児休業からの復帰後のことや本件申入書に記載されたことなどにわたり、被控訴人がわだかまりを抱えているのなら今日解決したいなどといった控訴人代表者の発言や、関係者に謝罪を求める趣旨の被控訴人の発言などもあったが、話はまとまらなかった。
控訴人は、同年12月18日、八王子簡易裁判所において、被控訴人を相手方として、調停を申し立て、これを受けて被控訴人は本訴代理人弁護士を調停の代理人として依頼するなどした。
(5)被控訴人は、令和3年1月18日、労働組合であるBユニオン(以下「本件労組」という。)に加入した。
本件労組は、同月27日付け書面をもって、被控訴人の復帰に当たっての控訴人の方針を明らかにすることを求めるとともに、被控訴人に対するパワハラ等について事実関係を調査し、責任者を処分し、文書で謝罪するとともに、これらの内容を全従業員に通知することなどを求め、控訴人に対し、団体交渉を要求した。
控訴人は、同年2月2日に上記調停申立てを取り下げた。
(6)控訴人は、令和3年2月3日、本件訴えを提起し、被控訴人に対し、「ハラスメントを理由とする損害賠償債務を負担しないこと」の確認を求めた。
その後、控訴人は、原審での複数回にわたる訴えの変更の結果、被控訴人がA等からマタニティハラスメントやパワーハラスメント(以下「本件パワハラ等」という。)を受けたとして控訴人に対し謝罪文等を要求しているが、本件パワハラ等は存在しないとして、被控訴人に対し、控訴人の被控訴人に対する安全配慮義務違反による債務不履行、使用者責任又は会社法350条に基づく損害賠償債務及び謝罪文の交付義務が存在しないことの確認を求めた。
なお、控訴人は、令和3年2月26日、本件労組と1回目の団体交渉を行い、同年4月7日、2回目の団体交渉を行い、同年5月10日、3回目の団体交渉を行った。そして、これらの団体交渉において、被控訴人の復職後の処遇や本件パワハラ等に関する件などの話がなされた。
【争点】
(1)請求の不特定により本訴を却下すべきか否か
(2)確認の利益の欠如により本訴を却下すべきか否か
(3)本件パワハラ等の存否
以下、裁判所の判断の概要を示す。
【裁判所の判断】
原判決は、本訴においては各請求の趣旨の特定がいずれも不十分であるとして、各請求に係る訴えを全て却下した。
しかしながら、当裁判所としては、本件においては確認の訴えにおいて求められる即時確定の利益が存在するとはいえないから本訴は不適法と判断するものである。その理由は以下のとおりである。
(1)判断枠組み
ア 本件は消極的確認訴訟である債務不存在確認訴訟であるところ、かかる訴訟が提起される典型的な事件類型である交通事故による損害賠償請求権の存否が問題となっている事案についてみると、この種事案において提起された債務不存在確認訴訟については確認の利益が認められるのが通常であるものの、紛争が未成熟であったり、訴え提起が濫用的であったりするなど特段の事情がある場合には確認の利益が否定される余地もあると考えられるところである(このような指摘をしている裁判例として、東京高裁平成4年7月29日判決、東京地裁平成9年7月24日判決)。
イ 本件は職場内における本件パワハラ等をめぐる紛争について債務不存在確認訴訟が提起されている事例であるところ、この種の紛争については以下のような指摘ができる。
職場内において、パワーハラスメントやセクシャルハラスメント等、各種ハラスメント(以下「パワハラ等」という。)が発生したとして従業員が事業主に対して相談を持ちかけたり苦情を申し入れたりしたからといって(以下、両者を併せて「相談等」という。)、当該従業員が事業主に対して損害賠償を請求する目的があると当然にいえるものではない。
このような場合における問題解決の在り方には多様な選択肢があり得るところであって、従業員としては事業主が事実関係の調査を踏まえて適切な対応措置を取ることを通してより良い職場環境が実現されることを期待しているのがむしろ通常であると理解される。
労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律30条の2第1項は、「事業主は、職場において行われる優越的な関係を背景とした言動であって、業務上必要かつ相当な範囲を超えたものによりその雇用する労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない。」と定めるが、これは上記と同様の理解に立つものといえるであろう。
そして、同条3項を受けて定められた「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和2年厚生労働省告示第5号)」は、事業主に対して職場におけるパワーハラスメント防止のための措置を講ずることを求めるとともに、従業員から相談等があった場合において迅速かつ正確な事実確認やこれに引き続く措置を取るべきことなどを定めているところである。
ウ このような事情を考慮すると、従業員がパワハラ等について事業主に相談等をした場合には、状況のいかんにより将来的に従業員からパワハラ等を理由とする損害賠償請求がされる可能性がないわけではないけれども、その可能性は一般的抽象的なものにとどまり、むしろ両者間の協議や事業主による対応措置がされることによって債務不履行や不法行為を理由とする金銭賠償や特定的救済といった紛争にまで至らずに解決する可能性も十分に高いものと思われる。
そうすると、紛争解決の在り方として損害賠償による解決が原則となる交通事故の場合などとは相当に様相が異なると解されるのであって、単に上記のような相談等がされたことをもって事業主に対する損害賠償請求権の行使につながる抽象的可能性があるとして当該従業員を相手に債務不存在確認訴訟を提起することは、損害賠償請求に係る紛争が未成熟な段階で確認を求めるものといわざるを得ない。
エ また、かかる段階で債務不存在確認の訴えを提起することは、相談等をした従業員側の意思に必ずしもそぐわないばかりでなく、事業主の法令上の責務を果たさないまま応訴の負担を従業員に負わせることにもなりかねないところである。
損害賠償請求がされる抽象的危険があれば債務不存在確認訴訟を提起できるとするならば、従業員としては損害賠償請求をしないと約束でもしない限り上記の負担にさらされることにもなるが、これは問題解決へ向けた従業員の選択肢を奪う結果となるのではないかとの疑問もあるし、その態様のいかんによっては従業員からの相談等を封殺するおそれがあることも否定できず、既に挙げた法令等の趣旨との抵触が問題となり得るというべきである。
オ このような事情を勘案すると、以上のような状況の下で債務不存在確認訴訟が提起された場合において、当該確認訴訟による即時確定の利益があるといえるためには、少なくとも当該事案における事実関係に照らして従業員が事業主に対し損害賠償請求権を行使する現実的危険があるといえるだけの事情があることを要するものと解するのが相当である。
(2)検討
ア 被控訴人が令和元年5月に提出した本件申入書には、被控訴人が上司から本件パワハラ等を受けたという趣旨の記載がされているが、その中には控訴人に対して損害賠償を求めるといった記載は含まれていない。
イ 被控訴人は、本件申入書を提出した直後から育児休業を取得していたが、令和2年10月になって控訴人代表者と面談しており、その際、育児休業からの復帰後のことに加えて本件申入書に記載されていた本件パワハラ等の件についても話がなされ、その中で、謝罪をしてほしい旨の発言が被控訴人からされてはいるが、この発言は長時間にわたる面談の一場面において出たものにすぎない。
この面談では控訴人代表者による発言が多く占めているところ、むしろ控訴人代表者から「じゃあ1個1万円にしとく?1個1万円払うよ」などと金銭解決を持ちかけたかに取れる発言もあり、これに対して被控訴人が「1個1万円?いや、それは考えたことなかったので」と応じるなど、被控訴人側においては必ずしも損害賠償請求を念頭に置いていなかったこともうかがわれる。
ウ 被控訴人が加入した本件労組が令和3年1月27日付け書面をもって控訴人に対し団体交渉を要求した際にも、そこにおける要求事項は、被控訴人の復帰に当たっての控訴人の方針を明らかにすること、被控訴人に対する本件パワハラ等について事実関係を調査し、責任者を処分し、文書で謝罪するとともに、これら内容を全従業員に通知することなどであり、本件パワハラ等の件について損害賠償を求めることは要求事項に入っていない。
要求事項の中には文書での謝罪を求める部分もあるが、同事項全体から見るならば、これは債務不履行や不法行為を理由に特定的救済を求める趣旨のものというよりも、控訴人に対して前記厚生労働省告示が挙げる雇用管理上の措置の一環として取材を要求する趣旨のものと理解し得るところである。
控訴人と本件労組との第1回交渉の際には、本件労組側から、金銭的解決になる可能性もあるとの話が出ている部分も一部にはあるが、他方において、どういう職場を作っていくのか、その中で雇用の問題やハラスメントの問題をきちんと解決していくことを重視している趣旨の発言もされているところであって、交渉全体を見ても、被控訴人が損害賠償請求を具体的に考えているとうかがわれるだけの事情は見受けられない。
エ 以上の事情に照らすならば、本件においては、被控訴人が控訴人に対して、控訴人の従業員であった時期に受けた本件パワハラ等を理由として控訴人に対して損害賠償請求権を行使する現実的危険があるといえるだけの事情があるとはいい難い。
したがって、本訴は即時確定の利益を欠くものというべきであるから、これを不適法として却下すべきである。
(3)結論
控訴人の訴えをいずれも却下した原判決は、結論において相当であり、本件控訴には理由がない(控訴棄却)。
【コメント】
本裁判例は、控訴人(事業主)が被控訴人(従業員)を相手に提起した債務不存在確認訴訟について、被控訴人が控訴人に対してパワハラ等を理由として損害賠償請求権を行使する現実的危険がなく、即時確定の利益を欠くとして、訴えを却下した事例です。
本裁判例は、従業員がパワハラ等について事業主に相談等をしたことを契機として、事業主が従業員を相手に提起した債務不存在確認訴訟について即時確定の利益が認められるためには、従業員がパワハラ等を理由として事業主に対して損害賠償請求権を行使する抽象的危険があるのみでは紛争の成熟性を欠くことから、その現実的危険が必要である旨判示しています。