本件事故により原告に胸郭出口症候群の症状が発現したことを認めつつ、本件事故により原告の線維性の組織に生じた外傷性変化が半年以上継続するとは認められないことなどから、原告の上記症状を後遺障害と認定しなかった事例(控訴審係属中)
【事案の概要】
(1)交通事故(以下「本件事故」という。)の発生
ア 発生日時 平成29年3月15日午後2時30分頃
イ 発生場所 横浜市内の路上
ウ 原告車両 普通乗用自動車
エ 被告車両 普通乗用自動車
オ 事故態様 丁字路交差点の直進路に駐車していた原告の乗車する原告車両に、その前方から後退進行してきた被告車両が衝突(逆突)した。
(2)治療の経過等
ア 原告(昭和40年6月生・本件事故当時51歳)は、本件事故の2日後の3月17日にA病院を受診し、その後、頸椎捻挫及び左関節挫傷の診断の下で、10月6日まで通院を続けて治療を受けた(総通院期間204日・実通院日数54日)。
イ A病院の医師は、10月13日付けで、自覚症状等につき以下の通り記載した自動車損害賠償責任保険後遺障害診断書を作成した。
a)症状固定日 平成29年10月6日
b)傷病名 頸椎捻挫
c)自覚症状 左上肢の重だるさ、左前腕痺れ、左上腕外側しびれ、左上肢の感覚低下
d)各部位の後遺障害の内容・他覚症状および検査結果
左上肢の重だるさ、左前腕痺れ、左上腕外側しびれ、左上肢の感覚低下を認める。
右握力44kg、左握力14kg
XP、MRI明らかな外傷性変化認めず。しかし左上肢の痛みは継続している。
e)各部位の後遺障害の内容・関節機能障害の欄 略
(3)自賠責による等級認定等
ア 事前認定 非該当
a)頸椎捻挫後の左上肢の重だるさ、左前腕痺れ、左上腕外側しびれ、左上肢の感覚低下、左上肢の痛み等の症状については、提出の画像上、本件事故による骨折や脱臼等の明らかな外傷性の異常所見、脊髄や神経根への圧迫所見はいずれも認められず、また、後遺障害診断書等からも、自覚症状を裏付ける客観的な医学的所見に乏しい。
b)左上肢(左肩、左肘)の関節機能障害については、提出の画像上、当該部位に骨折等の異常所見は認められず、また、提出の診断書等からは、神経損傷等も認められないことから、関節可動域制限の原因となる客観的所見に乏しい。
イ 異議申立て 非該当
ウ 紛争処理委員会による調停 非該当
(4)原告は、訴えを提起して、被告に対し、後遺障害が残存したと主張して、民法709条に基づき、後遺障害逸失利益、後遺症慰謝料及び弁護士費用の合計148万0,084円(なお、後遺症以外の人身損害については示談済みである。)とこれに対する遅延損害金の支払を求めた。
(5)本件訴訟において、裁判所が選任した鑑定人Bは、鑑定書を提出し、その中で、原告の病態に関する考察について言及した上で、鑑定事項に対して、概要、以下のとおり回答した。
ア (鑑定事項)原告が平成29年10月6日の症状固定日当時、自覚症状として訴えていた左上肢の重だるさ、左前腕しびれ、左上腕外側しびれ、左上肢の感覚低下(以下「本件症状」という。)の全部または一部の症状は、現在も認められるか。
(結論)現在でも認められる。
(理由)令和元年12月20日に原告を直接診察した際に、上記の症状を認めた。
イ (鑑定事項)本件症状は、本件事故による受傷に起因するものであるか。
(結論)本件事故が症状発現のきっかけとなったと考えられる。
(理由)原告に何らかの訴因があった可能性はあるが、外傷をきっかけに筋緊張が強くなり、胸郭出口症候群を発症したことは間違いないと考える。
ウ (鑑定事項)本件症状は本件事故による後遺障害に該当するか。
(結論)司法的な判断になると思われる。
(理由)本件事故が胸郭出口症候群発症のきっかけとなったと考えられるが、現在は外傷の直接的な影響は消失していると考えられる。現在まで症状が続いているのは日常生活での頸部周囲の筋疲労等の影響が考えられる。現在ある症状の全てを本件事故のためとするには無理があると考える。
エ (鑑定事項)前項が肯定された場合に、その後遺障害が、原告の労働能力に支障を及ぼす程度、その影響がある期間は、どう考えられるか。
(結論)現在の症状により労働能力は相当に落ちていると考えられる。神経の絞扼が緩まない限り現在の症状は継続すると考えられる。
(理由)現在でも筋緊張等による神経の絞扼は持続していると考えられ、握力が右握力43kg、左握力26kgと有意に左握力の低下を認めたことを考えると、少なくとも肉体労働は困難であることが考えられる。
(6)胸郭出口症候群について
ア C5〜Th1までの神経根が椎間孔を出た後に分岐と吻合を繰り返して形成される腕神経叢(上肢の運動と知覚を支配する。)は、手部に向かう手前で、斜角筋と肋骨の間(線繊維性トンネル)、鎖骨と肋骨の間(骨性トンネル)及び小胸筋と烏口鎖骨靭帯との間(繊維性トンネル)の3つの隙間を通過するところ、腕神経叢がこの隙間で絞扼された状態を胸郭出口症候群という。
イ 胸郭出口症候群では、手指、腕のしびれや熱、冷感、脱力感、頸部、肩、肩甲間部、前胸骨のうずくような痛みといった症状が出るとされている。
【争点】
(1)後遺障害の有無(争点1)
(2)損害額(争点2)
以下、裁判所の判断の概要を示す。
【裁判所の判断】
(1)争点1(後遺障害の有無)について
当裁判所は、原告申立てによる鑑定の結果も踏まえた上で、後遺障害を認定するには足りないと判断する。以下、その理由を述べる。
ア 左上肢の症状の原因について
a)本件事故により、原告に左上肢の症状が発症したことは、A病院の初診日に作成された診断書に「左肩関節挫傷」との病名が記載されていることや2回目の診察(3月25日)以降、左上肢の症状について原告が具体的に申告し続けていることから、これを認めることができる。
b)この左上肢の症状の原因については、原告が通院を続けたA病院の医療記録や診断書には具体的な記載が見当たらないが、鑑定人は、鑑定の結果において、頸部の筋緊張による胸郭出口症候群の症状の発現であるとの見解を示している。そして、当裁判所は、以下の理由により、この見解を採用し得るものと考える。
ⅰ)原告の左上肢の症状は、胸郭出口症候群の症状に沿うものということができる。
ⅱ)鑑定人は、原告に発症した左上肢の症状について、①頸椎の脊髄、②頸椎の神経根、③腕神経叢、あるいは、④その他の抹消神経のどこかに障害が起きているとした上で、まず、レントゲン検査(鑑定人も改めて実施している。)とMRI検査において頸椎の脊髄及び神経根の圧迫所見や外傷性の変化が認められなかったことや(なお、A病院の医師や自賠責の手続における読影結果も同様である。)、鑑定人が原告に対して直接に実施した検査のうち、脊髄傷害を示唆するもの(レルミット兆候、四肢の深部腱反射及びロンベルク兆候)と神経根障害を示唆するもの(ジャクソンテスト及びスパーリングテスト)がいずれも陰性であったこと等から、上記①と②の障害の可能性を除外し、他方で、鑑定人が原告に対して直接に実施した検査のうち、胸郭出口症候群を示唆するもの(ライトテスト、アレンテスト及びモーレイテスト)がいずれも陽性であったことを踏まえて、③の障害によるものとして胸郭出口症候群を特定しているところ、その判断の経過は十分に納得し得る合理的なものと言える。
ⅲ)A病院でのリハビリが腕神経叢の絞扼を想定してのものであったことがうかがわれる。
イ 左上肢の症状の後遺障害該当性
しかしながら、本件事故により原告に発現した胸郭出口症候群の症状については、以下の理由により、将来においても回復が困難なものとは認め難く、したがって、後遺障害と認定することはできないと考える。
ⅰ)胸郭出口症候群は、腕神経叢が、その通過する線維性の組織あるいは骨の隙間において絞扼されることで発症するものであるところ、本件においては、原告の鎖骨や助骨に骨折や脱臼等の所見は確認されていないから、隙間を構成する骨について腕神経叢の絞扼をもたらすような外傷性変化が生じたと認めることはできない。
ⅱ)そうすると、原告に発現した胸郭出口症候群の症状については、筋肉や靭帯といった線維性の組織に腫脹等の外傷性変化が生じ、これにより腕神経叢が絞扼されたものと考えるべきことになるところ、以下の事情を踏まえると、本件事故により原告の線維性の組織に生じた外傷性変化は、半年以上にわたって継続するようなものとは認めることができない。
・鑑定人は、鑑定の結果において、筋緊張が胸郭出口症候群の症状をもたらしたとした上で、筋や腱の断裂8週間から12週間で修復されるものであり、外傷での直接的な影響も長くて6ヶ月でなくなるとの見解を示している。そして、この見解に疑義を生じさせるような医学的知見等は一件記録に見当たらない。
・本件事故の衝突の際の速度を具体的に特定することはできないが、そもそも被告車両が後退進行した際の事故であり、また、原告車両及び被告車両に目立った凹損も認められないことからして、原告車両に及んだ衝撃が大きなものであったとは言い難い。
その上、本件事故は、原告車両の前方からの衝突(逆突)であり、衝突の瞬間には、車体(座席)は後方に動くのに対し、乗員の身体は慣性の法則によりその場にとどまろうとするのであるから、シートベルトを外していた原告につき、上体を左に捻り、左腕を助手席に伸ばしていた体勢を前提にしても、左肩や左腕を座席等に強く打ち付けるといった受傷機転は考え難い。
そうすると、本件事故の影響により、強固な外傷性変化が生じるような外力が原告に及んだとは認められない。
・本件事故直後のレントゲン検査やMRI検査の結果において、腕神経叢周囲に外傷性変化が生じていることを示唆する所見は確認されていない。
ウ 原告の主張について
原告は、
①本件事故は原告にとって不意打ちであり、衝撃も大きかった、
②原告の左上肢の症状は、本件事故後、一貫して継続しており、本件事故から約2年2ヶ月後の令和元年12月20日の鑑定人による直接診察(以下「鑑定人診察」という。)においても、その残存が確認されている、
③鑑定結果は、外傷の直接的な影響は長くて6ヶ月というが、これは、直接的な影響は消失するといっているだけであり、外傷を原因として発症した症状が6ヶ月の経過でなくなることをいっているものではない
などと主張する。
ⅰ)しかしながら、上記①については、上記イⅱ)のとおり、車両の損傷状況からして衝撃が大きかったとはいえず、また、そもそも逆突という事故態様において、シートベルトを着用していない乗員が身体を強く打ち付けるとう受傷機転が認め難いのであり、このことは、不意打ちであったとしても変わらないから、上記イの判断を左右するものではない。
ⅱ)次に、上記②については、まず、原告は平成29年10月6日の症状固定後は通院をしておらず、その後の左上肢の症状の内容や程度の推移を医療記録によって確認できないため、そもそも症状固定後の一貫した症状の継続性を認めることができない。
また、令和元年12月20日の鑑定人診察の際に確認された症状についても、鑑定人が、これを全て本件事故によるものということには無理があり、日常生活での頸部周囲の筋疲労等の影響が考えられると述べているところ、原告は、本件事故後も長い場合に1日4、5時間を要するバイク便の仕事を続けており、ヘルメット装着による頸部への負担という日常生活上の要因が実際に考えられること、鑑定人が、本件事故による胸郭出口症候群の症状の発現に関して、腕神経叢の通過する隙間がもともと狭いという素因が原告にあった可能性も指摘していることを踏まえると、鑑定人診察の際に確認された症状と本件事故との因果関係を認めることが難しい。
そうすると、上記②の点に関する原告の主張は、その前提を認めることができない。
ⅲ)さらに、上記③の点については、事故によって発症した症状の直接的な影響が消失したという中で、症状が残存するということがあり得るとしても、この場合に後遺障害を認め得るかは、結局のところ、かかる症状の残存に関する事故以外の要因の影響等も踏まえた認定の問題であり、本件において後遺障害の残存を認めるに足りないという点は、上記イ及び上記ウⅰ)及びⅱ)においてその理由を述べてきたとおりである。
ⅳ)以上のとおり、原告の主張は、その前提を認め難いか、上記イの判断を左右するものではない。
エ 小括
したがって、原告の左上肢の症状(神経症状)について、これを後遺障害と認定することができない。
(2)結論
傷害分の損害については示談済みであり、後遺障害分の損害の支払のみを求める原告の請求は、後遺障害を認めることができない以上、争点2(損害額)についての検討に及ばずに、理由がない(請求棄却)。
【コメント】
本裁判例は、本件事故によって、一旦原告に胸郭出口症候群の症状が発現したことを認めつつ、現在の原告の左上肢の症状の原因である胸郭出口症候群は、「事故以外の要因」、すなわち、本件事故とは別の原因によるものであると認定しているようです。この点、現在の原告の左上肢の症状の原因である胸郭出口症候群と、本件事故によって原告に発現した胸郭出口症候群との連続性については、必ずしも明確ではないように思われます。
本裁判例で示された論理によれば、線維性の組織に生じた外傷性変化によって生じた胸郭出口症候群について、後遺障害の認定を得ることは困難となります。