【労働】東京地裁平成29年8月25日判決(判例タイムズ1461号216頁)

原告と被告の労働契約において、出向手当が固定残業代の性質を有するというに足りる労働契約上の根拠があるということはできないと判示した事例(控訴審にて和解成立)


【事案の概要】

(1)被告は、IT(情報処理)人材育成・派遣事業等を目的とする株式会社である。被告の取締役は、代表取締役でもあるAのみである。Aとその妻で被告の「専務取締役総務部長」を称しているFは、ともに中国の国籍を有する。
   原告B、原告C,原告D,原告Eは、いずれも被告又はその関連会社に雇用されていた、中国の国籍を有するものである(なお、本稿では、原告Bの請求のみを対象とする。)。

(2)原告Bは、平成26年9月8日付け雇用契約書(甲21)を作成して、被告との間で、以下の内容の雇用契約を締結した。
 ア 雇用期間 平成26年9月5日から3年間
 イ 担当業務 被告指定のIT開発その他の業務
 ウ 勤務時間 就業規則に従う(3条)。「出向の場合、勤務時間・休日休暇・精算などの諸事項は現場の規定に従い、待機の場合、就業規則に従う(8万円+交通費)」(5条)。
 エ 賃金 「基本報酬:20万円/月平均。(内訳:基本給15万円/月、出向手当:3万円/月、基本賞与2万円※年2回支払、評定賞与込み)」、「交通費と残業代:就業規則に従い、精算とする。」(3条)
 オ 賃金の支払方法 月末日締め翌月末日払い(3条)
   そして、原告は、平成27年1月31日に退職するまで、IT技術者として、被告の指示で株式会社Gの事業場で、被告が請け負った業務に就労した。毎月の賃金は、実際には基本給15万5000円、出向手当3万5000円(計19万円)及び交通費が支給されていた。

(3)原告Bが平成26年11月から平成27年1月31日に被告を退社するまでの間、Gの事業場で就労した労働時間の状況は、別紙1-1「勤務時間・賃金計算票(原告B)」(略)のとおりである。
   そして、被告は、原告Bの平成27年1月の就労に基づく賃金19万円(基本給15万5000円、出向手当3万5000円)をその支払期日(同年2月末日)を経過したあとも支払っていない(ただし、その未払に正当な理由があるかどうか争いがある。)。

(4)被告の就業規則
 ア 本訴では、平成25年11月13日にそれぞれ適用が開始された、乙1の就業規則及び甲56の就業規則が証拠として提出されていた。ところが、被告は、平成27年6月の本訴提起から2年近くが経過し、弁論準備手続も既に終結した平成29年5月になって、乙12の就業規則を提出した。
 イ 乙12の就業規則には、適用開始日を示す附則はなく、「平成26年6月1日」という日付のみが記載されており、「就業規則の了承に関する従業員(代表)のサインリスト」「私どもが、会社の最新就業規則の内容について、会社の通知と説明を十分に受け、理解した上で了承しました。」との文章の下に、原告C,原告A、原告Bらの署名押印がある。書面が添付されている(以下、この書面を「サインリスト」という。)。
 ウ 乙12の就業規則の内容は、概ね甲56の就業規則と同様であり、出向手当は、「固定残業代として支給する」旨が定められている(なお、乙1の就業規則の出向手当に「28時間の固定残業時間が含まれる」という部分は、甲56の就業規則では、出向手当に「含まれる固定残業時間は給与明細等により個別に明示する」となっている。)。


【争点】

   本訴において、原告Bの請求に関する争点は、
(1)原告Bの割増賃金
 ア 出向手当の性質
 イ 所定労働時間の時間数
(2)原告Bの交通費
(3)原告Bの賃金と立替金との相殺
(4)原告Bの割増賃金に係る付加金
であるが、以下、(1)アのみについて、裁判所の判断の概要を示す。


   なお、上記の争点に関する被告の主張は、以下のとおりである。
 ア 被告は、乙12の就業規則において、「出向手当は、固定残業代として支給する」旨を定めており、毎月3万5000円の出向手当は残業代に充当されるべきものであるから、割増賃金の基礎賃金から除外されるとともに、割増賃金の弁済となる。そして、原告Bには、毎月3万5000円(約31時間分)の出向手当を超える法定時間外労働はなかった。
 イ 就業規則は、入社時に閲覧させて、その内容を説明し、社員から就業規則の内容について説明を受けた旨のサインリスト(乙12)に署名押印させ、さらに事業場に誰でも分かる形で備え置いている。


【裁判所の判断】

(1)出向手当が固定残業代の性質を有するためには、労働契約上の根拠が必要なこと
   被告は、出向手当は固定残業代であると主張するところ、このような手当が固定残業代であると認められるためには、労働契約において、出向手当が固定残業代であると定められていて、残業代ないし割増賃金の性質を有し、かつ、その他の賃金(通常の労働時間の賃金など)と明確に区別されていることで、固定残業代によらない労働契約、労働基準法37条等に基づく通常の計算方法による残業代ないし割増賃金の金額と比較することが可能であることを要すると解する。
   しかし、原告Bと被告との間で締結された雇用契約書(甲21)を合理的に解釈すれば、原告の賃金は所定労働時間内の勤務に対する賃金である「基本報酬」たる基本給及び出向手当に加え、残業代及び交通費で構成され、残業手当及び交通費は出向手当とは別に精算されることが定められていたというべきである。

(2)労働契約と就業規則の優劣
 ア これに対し、被告は、乙12の就業規則において、「出向手当は、固定残業代として支給する」旨が定められていると主張する。
   しかし、就業規則の内容が労働契約成立時から労働条件の内容となるためには、
  ①労働契約成立までの間に、その内容を労働者に説明し、その同意を得ることで就業規則の内容を労働契約の内容そのものとすること、
  ②労働契約を締結する際若しくはその以前に合理的な労働条件を定めた就業規則を周知していたこと(労働契約法7条)を要する。ただし、上記②の場合は労働契約で就業規則と異なる労働条件が合意されている部分は、就業規則の最低基準効(同法12条)に抵触しない限り、労働契約が優先する(同法7条但書)。
   そして、労働契約で用いられている用語につき、就業規則が一般に理解される意味とは異なる特別の意味で解釈することは、労働者と使用者の個別の合意による労働契約の内容を、使用者のみの制定による就業規則に基づいて変更し、就業規則を優先させることに等しく、使用者による労働者に対する労働条件の明示義務(労働基準法15条)及び理解促進の責務(労働契約法4条)並びに労使の対等な立場における合意原則(労働契約法1条、3条1項、8条、9条本文、労働基準法2条1項)の趣旨に反し、労働者に対し予測可能な労働条件を押し付ける不意打ちにもなりかねない。
   それゆえ、労働契約締結以前にその就業規則も示して、就業規則の内容が労働契約そのものとなり、労働契約の用語を就業規則での特別の意味で用いることが労働契約に取り込まれたといえる上記①の場合に当たらない限り、労働契約法7条但書の趣旨に従い、その労働契約はやはり一般に理解される意味で解釈されるべきである(就業規則の最低基準効に反する場合は除く。)。
   したがって、乙12の就業規則での「出向手当は、固定残業代として支給する」旨の定めが労働契約成立前から労働条件の内容となるためには、前記①の場合に該当すること、すなわち、就業規則の内容を原告Bに説明し、その同意を得ることで、就業規則の内容を原告Bと被告との間の労働契約書(甲21)と同様に、労働契約の内容そのものとすることを要することになる。
 イ この点、Aは、陳述書及びA尋問において、原告Bに対して、入社時に乙12の就業規則を読み聞かせて、出向手当は28時間分の残業代であることを説明した上、サインリスト上に原告Bの署名押印を得た、つまり前記アの①の場合に当たる旨を供述する。
   しかし、サインリストにおける署名押印の位置や署名押印用の欄の体裁(上の欄から各従業員が署名押印していったものと認められる。)から見て、原告Bは、原告Aの署名押印以後に署名押印したと認められる。
   そして、前記【事案の概要】(2)に加え、証拠(原告A等)及び弁論の全趣旨によれば、原告Bは、平成26年9月5日ころ来日し、同日から雇用期間が開始するものとして同月下旬に同月8日付けに遡って雇用契約書(甲21)を作成し、原告Aは、同年10月8日に来日して(つまり、その前にサインリストに原告Aが署名押印することは物理的に不可能である。)、同日から雇用期間を開始するものとして、同月9日付けで雇用契約書(甲12)を作成していることが認められる。
   それゆえ、原告Bは、平成26年9月5日の雇用開始から1か月以上、雇用契約書(甲21)の作成からでも8日以上、経過した後にサインリストに署名押印したことが推認され、Aの前記供述は採用できない。そのほかに、原告Bと被告の労働契約が入社時から乙12の就業規則の内容を含むと認めるに足りる的確な証拠はない。

(3)労働条件変更の要件
 ア いったん雇用契約書(甲12)の内容で労働契約が成立している以上、出向手当を固定残業代とすることは、従前、基本給及び出向手当から構成されていた所定労働時間の賃金を、基本給のみに切り下げる労働条件の不利益変更に当たる。  
 イ それゆえ、その賃金減額が有効となるためには、①原告Bの同意があり、かつ、その同意が原告Bの自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在すること(労働契約法8条、最高裁平成28年2月19日判決参照)、又は②従前の労働条件を変更する就業規則を労働者に周知し、かつ、その労働条件変更が合理的なものであること(同法10条)のいずれかを要する。
 ウ しかし、乙12の就業規則の内容に加え、不利益変更の内容、その理由等に関する適切な説明や協議がされて、原告Bが労働条件の不利益変更が生じることを正確に理解した上で、署名押印したことを示すなど、合理的な理由の客観的な存在を認めるに足りる的確な証拠はない。この点、サインリストには、「私どもが会社の最新就業規則の内容について、会社の通知と説明を受け、理解した上で了承しました。」との不動文字による記載があるが、これのみでは合理的な理由の客観的な存在を認めるには足りない。
   また、労働条件変更の合意理性を認めるに足りる主張立証もない。

(4)就業規則の周知
   なお、Aは、A尋問において、被告の就業規則を営業所に備えておいて、従業員にもそのことを知らせて閲覧に供していたとも供述する。
   しかし、閲覧に供していた状況を具体的に認めるに足りる的確な証拠はない。むしろ、前記【事案の概要】(4)のとおり、被告には、適用開始日が同じなのに内容が異なる甲56、乙1の各就業規則が同時に存在する、本件訴訟で就業規則を適時に書証として提出していないといった就業規則管理上の不備があったことが認められる。この点、乙12の就業規則には、原告A及び原告Bの署名押印があるサインリストが添付されている。しかし、「周知」とは、労働者が知ろうと思えばいつでも知ることができるようにしておくことをいうから、閲覧を1回許すのみでは周知とはいえない(労働基準法施行規則52条の2の周知方法でも「常時」という要素を明記している。)。
   したがって、被告が就業規則の内容を労働者がいつでも知ることができるように周知していたとは認めるに足りない。

(5)小括
   以上によれば、労働契約と就業規則の優劣、労働条件変更の要件、就業規則の周知、いずれの見地からも、原告Bと被告の労働契約において、出向手当が固定残業代の性質を有するというに足る労働契約上の根拠があるということはできない。

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