【労働】福岡高裁令和2年11月11日判決(労働判例1241号70頁)

元従業員が既存顧客(元従業員が元勤務先に就職する前から元従業員と関係があった顧客)に対して行う営業活動のうち、当該顧客から引き合いを受けて行なった営業活動であって、元従業員から既存顧客に連絡を取って勧誘したとは認められないものについては、競業避止義務の対象に含まれない旨判示した事例(上告審係属中)


【事案の概要】

(1)被控訴人(第1審原告)は、各種保険契約の募集・締結(保険代理店業等)を主たる業務とする株式会社である。
   控訴人(第1審被告)は、かつて個人事業として保険代理店業を営んでいた者であるが、平成20年11月、被控訴人の代表者であるAが個人事業として行っていた保険代理店であるB社で勤務するようになった。このとき、控訴人が個人事業を営んでいる間に獲得した顧客(以下「控訴人既存顧客」という。)の保険契約は、B社に移管された。
   控訴人は、平成21年3月頃にB社が法人化して被控訴人が設立された後、被控訴人の従業員となり、生命保険及び損害保険の営業、顧客管理等の業務に従事した。このとき、控訴人既存顧客の保険契約は被控訴人に移管された。

(2)控訴人は、被控訴人の求めに応じ、平成28年4月1日頃、機密保持誓約書に署名押印し、同日の日付を記入して、これを被控訴人に提出した(以下、控訴人が被控訴人に提出した機密保持誓約書を「本件誓約書」という。)。本件誓約書には、以下の内容の条項が存在する(以下、本件誓約書の第32項の規定を「本件競業避止特約」という。)
   第1条(秘密保持の誓約) 略
   第2条(機密の報告及び帰属) 略
   3条(退職後の機密保持)
   1項 機密保持については、原告を退職した後においても、自己の為又は当会社と競合する事業者、その他第三者のために使用しないことを約束します。  
   2項 退職後、同業他社に就職した場合、又は同業他社を起業した場合に、原告の顧客に対して営業活動をしたり、原告の取引を代替したりしないことを約束します。但し、個人情報、機密保持とも期限を定めないものとします。

(3)控訴人の給与は、被控訴人入社時から平成2812月までは、控訴人既存顧客の契約に係る手数料収入の7(ただし、控訴人入社直後の2か月間は75%であった。)及びその他の契約に係る手数料収入の21%の歩合給であった。
   控訴人の給与は、平成291月分から、月額25万円の固定給及び5万円の調整手当の支払となった。
   控訴人と被控訴人は、同年51日、労働契約を更改した。同契約で定められた控訴人の給与体系は、以下のとおりである。
 ア 基本給:20万円 別途目標達成率に応じた販売手当
 イ 賞与、退職金:なし
 ウ その他:営業活動にかかる経費は、基本給に含まれる。
   控訴人は、同年7月21日、被控訴人に対し、退職届を提出した。

(4)控訴人は、個人事業として稼働していた平成20年夏頃、以前から10台程度の自動車保険の契約をしていたC病院(以下「本件病院」という。)に対し、D社の企業財産包括保険(建物の損傷の他、医療機器の損傷等にも対応する保険。以下、この保険に係る契約を「本件保険契約」という。)の提案をし、控訴人が被控訴人(当事はB社)に入社した後の平成21年1月7日、本件病院は、B社を代理店として、D社と本件保険契約を締結した。
   本件病院は、平成23年9月、被控訴人を代理店とし、保険期間を同月30日から平成26年9月30日午後4時までの3年として、保険金額を従前より上げた本件保険契約を締結した。また、本件病院は、同月、被控訴人を代理店とし、保険期間を同月30日から平成29年9月30日午後4時までの3年として、本件保険契約を更新したが、この時の保険料は578万0880円であった。
   被控訴人の代表取締役であるA、控訴人、控訴人の営業課長、D社の担当者の4名は、平成29年8月31日、本件保険契約の更新を依頼するため、本件病院に行き、本件病院の事務部副部長であるEと面会したが、本件保険契約の更新には至らなかった。

(5)控訴人は、平成29年8月31日付で被控訴人を退職した。
   控訴人は、遅くとも同年9月1日までに、被控訴人と同じく保険代理店業を営む株式会社F(以下「F社」という。)に入社した。
   控訴人は、F社に転職後、本件病院に対し、保険商品を提案し、本件病院は、同年9月13日、F社を代理人として、G社と保険契約を締結し、本件保険契約は更新しなかった。

(6)被控訴人(一審原告)は、本件訴訟を提起して、控訴人(一審被告)につき、被控訴人を退職して同業他社に就職した場合に被控訴人の顧客に営業活動を行わない旨の競業避止義務を負っていたにもかかわらず、被控訴人を退職した後に就職した同業他社において被控訴人の顧客に対する営業活動を行なって、競業避止義務に違反した等の義務違反があり、これにより、被控訴人の顧客の一部が契約を更新せず、被控訴人は契約の更新がされていれば得られていたはずの代理店手数料を得ることができず、損害を被ったと主張し、控訴人に対し、債務不履行に基づく損害賠償請求として、被控訴人に生じた損害の一部である179万9386円及びこれにたする遅延損害金の支払を求めた。

(7)原判決(福岡地裁小倉支部令和2年6月17日判決・労働判例1241号79頁)は、控訴人について上記の競業避止義務が認められると判断し、以下の理由を述べた上で、被控訴人の請求のうち141万2059円及びこれにたする遅延損害金の支払を求める限度で認容し、その余の請求を棄却した。
   「被告は、原告在職中、原告の従業員として、原告のために職務を行うべき義務を負うものであるから、近い時期に競業会社に転職等する予定があったとしても、原告在職中は、被告既存顧客(注:被告が原告に就職する前から被告と関係があった顧客であり、控訴審における控訴人既存顧客に相当する。)であるか否かを問わず、原告において保険契約が締結されるように努めなければならないところ、転職後まもない時期に、競業会社において、原告の顧客に対し営業活動をすることは、在職中の職務懈怠を強く推認させるものであるから、競業会社に転職後まもない時期の、原告の顧客に対する営業活動を制限することは、その相手が被告既存顧客であり、かつ、代償措置がないとしても、必要かつ合理的な制限であるといえる。」
   これに対し、控訴人が、上記認容部分を不服として控訴した。


【争点】

(1)控訴人が、被控訴人在職中に、被控訴人の競業会社であるF社の使用人になったか(争点1)
(2)控訴人が、被控訴人在職中に、競業避止義務に違反したか(争点2)
(3)控訴人が、被控訴人退職後に、競業避止義務に違反したか(争点3)
(4)控訴人が、被控訴人退職後に、秘密保持義務に違反したか(争点4)
(5)被控訴人に生じた損害額(争点5)
   以下、主に争点3についての裁判所の判断の概要を示す。
   なお、裁判所は、争点1、2及び4に関する被控訴人の主張については、いずれも採用しなかった(注:各理由の詳細については、省略する。)。


【裁判所の判断】

(1)争点3(控訴人が、被控訴人退職後に、競業避止義務に違反したか)について
 ア 本件競業避止特約の成立
   控訴人が、被控訴人在職中に、本件競業避止特約を含む本件誓約書に署名押印して被控訴人に提出しているから、控訴人と被控訴人は、本件競業避止特約を含む本件誓約書の内容の合意をしたと認められる。
 イ 本件競業避止特約の有効性
  a)本件競業避止特約は、控訴人が被控訴人を退職した後、同業他社に就職し、又は同業他社を起業した場合に、被控訴人の顧客に営業活動をしない義務を無制限に課すものである。
   本件競業避止特約は、その内容からして、被控訴人がその顧客を維持する利益を確保することを目的とすると認められる。被控訴人は、保険代理店業を営む会社であり、顧客の獲得や維持について費用や労力をかけていると認められるから、顧客を維持する利益は一定の保護に値するといえる。
   しかし、本件競業避止特約によって課されるような退職後の競業避止義務は、労働者の営業の自由を制限するものである。このような退職後の競業避止義務については、労働者と使用者との間で合意が成立していたとしても、その合意通りの義務を労働者が負うと直ちに認めることはできず、労働者が負う競業避止義務による不利益の程度、使用者の利益の程度、競業避止義務が課される期間、労働者への代償措置の有無等の事情を考慮し、競業避止義務に関する合意が公序良俗に反して無効と解される場合や、合意の内容を制限的に解釈して初めて有効と解される場合があるというべきである。
  b)本件競業避止特約は、控訴人が同業他社に就職することや同業の会社を起業すること自体は禁じていない。
   しかし、控訴人は、もともと個人事業として保険代理店業を経営していたのであり、その時期に自らが獲得した顧客である控訴人既存顧客の保険内容をAの個人事業に移管し、その後控訴人既存顧客が控訴人の顧客となっている。そして、控訴人の自営の代理店業における平成20年3月末日時点の契約件数は776件であり、契約社数は200名を超えていていたことが認められる。そうすると、控訴人既存顧客は多数にのぼっており、これらの控訴人既存顧客については、被控訴人の顧客となってからの維持に関して被控訴人も労力や費用をかけたと考えられるものの、顧客の獲得は控訴人が行なっており、控訴人既存顧客からの収益については控訴人の貢献が大きかったということができる。そして、本件競業避止特約は、その文言によれば、控訴人が控訴人既存顧客に対しても営業活動を行わない義務を課す内容であり、控訴人がこのとおりの義務を負うとすれば、控訴人が受ける不利益は極めて大きいものである。
   他方、控訴人が本件競業避止特約に基づく競業避止義務を負うことについて被控訴人が控訴人に対して金銭の交付等の代償措置を講じたとは認められない。
   また、①平成28年1月分から同年12月分までとして控訴人に支給された給与(歩合給)の金額(保険料や税の控除前のもの)は、約29万円から約63万円までの範囲であり、30万円を割ったのは1か月のみである一方、50万円を超えた月が7か月もあったが、平成29年1月分から給与が固定給とされ、1月分から4月分までの給与はいずれも約30万円であって、給与体系の変更前に比べて収入が減少し、5月の労働契約の更改により、5月分から8月分までの給与はいずれも20万円台となり、さらに収入が減少したこと、②控訴人は退職に際して退職金を受領しなかったことが認められる。これらの事実によれば、控訴人が被控訴人在職中に受領した賃金や報酬が、控訴人が退職後に競業避止義務を負うことの実質的な代償措置であると認めることもできない。
   上記の事情の下では、本件競業避止特約により、控訴人が、被控訴人退職後に、控訴人既存顧客を含む全ての被控訴人の顧客に対して営業活動を行うことを禁止されたと解することは、公序良俗に反するものであって認められない。
   そして、本件競業避止特約の内容限定的に解釈することにより、その限度では公序良俗に反しないものとして有効となると解する余地があるとしても、少なくとも、控訴人が控訴人既存顧客に対して行う営業活動のうち、当該顧客から引き合いを受けて行なった営業活動であって、控訴人から控訴人既存顧客に連絡を取って勧誘したとは認められないものについては、本件競業避止特約に基づく競業避止義務の対象に含まれないと解するのが相当である。
 ウ 控訴人による義務違反の有無
  a)控訴人は、被控訴人を退職してF社に就職した後、控訴人既存顧客である本件病院に保険契約の提案を行い、本件病院は、F社を代理人とする保険契約を締結し、本件保険契約を更新しなかったことが認められる。
   そこで、上記イの解釈を前提に、控訴人の本件病院に対する営業活動が競業避止義務違反となるかを検討する。
  b)本件病院の事務部副部長であるEは、控訴人が被控訴人を退職した後である9月15日、被控訴人の代表取締役であるA及びD社の担当者と話をした際、本件保険契約を更新しなかった理由を問われ、保険料が安かったことを述べるとともに、「人についていってるんで。」「〇〇さん(注:控訴人のことである。以下同じ。)が動いたから。」「〇〇さんに付いていこう。」「だいぶお世話になって来たから」「G社だから契約したんじゃなくて、〇〇さんだから契約した。」と述べている(甲15)。
   Eの上記発言の内容及び証拠(乙4、10、控訴人本人)によれば、Eは、控訴人が8月末日で被控訴人を退職して別の保険代理店に移ることを知り、保険の関係で控訴人に長年世話になって来たことから、本件保険契約を直ちに更新することをせず、控訴人が新たな保険代理店に就職した後に、控訴人に連絡を取って話を聴くこととし、本件病院としてもこの方針で対応することとなり、控訴人がF社に就職した後に、控訴人に連絡を取って、F社で取り扱っている保険契約に関する説明を受け、その保険契約の保険料が本件保険契約の更新後の保険料よりも低額であったこともあって、控訴人から説明を受けた保険契約を締結することを決めたものと認められ、この認定事実に反する証拠はない。
  c)上記cの認定事実によれば、控訴人は被控訴人退職後に被控訴人の顧客であった本件病院に対して保険契約の提案をして、契約に至ったものであるが、本件病院は控訴人既存顧客であり、かつ、控訴人から保険の話を聴くことを希望した本件病院が控訴人に連絡したことを受けて行なったものであり、控訴人から控訴人既存顧客に連絡を取って勧誘したとは認められない。
   したがって、控訴人が被控訴人退職後に本件病院に対して行なった営業活動が、本件競業避止特約によって控訴人が負った競業避止義務に違反したと認めることはできない。

(2)結論
   以上によれば、争点5について判断するまでもなく、被控訴人の請求は理由がないから棄却されるべきである(原判決取消し・被控訴人の請求棄却)。


【コメント】

   従業員が勤務先を退職した後の競業避止義務を内容とする合意については、諸般の事情を考慮し、競業避止義務に関する合意が公序良俗に反して無効と解される場合や、合意の内容を制限的に解釈して初めて有効と解される場合があります。
   使用者としては、中途採用で営業職の従業員を採用する際に競業避止義務を内容とする誓約書を差し入れさせる場合には、後日の紛争を防止するため、既存顧客(元従業員が元勤務先に就職する前から元従業員と関係があった顧客)を申告させることが望ましいと考えます。

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